相談支援専門員の日々

障害福祉サービスの計画相談をしていた爺(じじい)のブログ。現在は就労B、生活介護の支援員をしています。

元相談支援専門員の応援派遣

3/11~3/22、輪島市の福祉避難所へ行って、支援のお手伝いをしてきました。

私が勤務する事業所に、市から「令和6年度能登半島地震の発生に伴う社会福祉施設等に対する介護職員等の派遣依頼について」という応援の要請があり(被災地以外のあらゆる事業所や関連団体に要請が行っているかと思います)、管理者に「ワーカーとして行きたいです」と希望を述べたところ、実現の運びとなった次第です。

てっきり〇〇市チームで行くのかと思ったら、そうではなく、応援希望者の情報は、市→県→厚生労働省…へと流れ、全国社会福祉協議会の中央センターが、応援を必要としている避難所等と、応援に行きたい希望者とをマッチングし、最終的には避難所等と希望者が支援内容や支援期間等について齟齬がないよう直接電話等で話し合いをした上で、応援派遣が実現する、という仕組みでした。

私が現地で行った応援の内容は、学生さんが実習時に行う支援と大差ないものだったと思います。が、避難所や輪島市内を歩いて見聞きした事で、災害時に役立つ情報は、私の勤務する事業所内で共有するよう努めました。

福祉避難所への応援派遣については、人件費や旅費等は、災害救助費から支弁されるそうです。

仮に、人件費や旅費を全て自分で賄わなければならないとしたら、私は今回、応援を希望しなかったと思います。

この応援派遣は、現在、4月、5月の希望者を募集しています。応援は長期にわたって必要となる見込みで、特に高齢者部門で人手が足りていないとの事です。

元相談支援専門員の令和5年

お久しぶりです。

令和5年の仕事に関係する出来事を振り返ってみると…。

①サビ管基礎研修を修了

新型コロナに感染したため、一時は受講できないかと思われたサビ管基礎研修だったが、無事、修了証をもらう事ができた。

グループワークのメンバーは、私以外は、看護師さん、保育士さん、精神保健福祉士さん、だった。実務の情報交換等ができ、有意義な2日間だった。

あとは2年後、実践研修を修了すれば、晴れてサビ管となる事ができる。それまでは、今の職場で淡々と仕事をこなしていこうと思う。

②第35回社会福祉士国家試験に合格

第34回で二度目の敗北を喫し、今回は絶対に合格するため、120点を目標に本番に臨んだ。

試験後の自己採点は104点で、目標には全然届かなかった。前年の合格基準点が105点だったため、合格発表日まではどんよりとした日々を過ごした。

蓋をあけてみれば、合格基準点は90点、一部で早くから噂されていたように、上位30%の縛りが撤廃された回であった。うれしかったが、拍子抜けした感もあった。

とりあえず資格登録し、社会福祉士会にも入会したが、現状、せっかくの資源をあまり活用できていない(動画は見たけれど…)。

③第26回介護支援専門員実務研修受講試験に不合格

介護福祉士の資格登録をしてから丸5年の年だった事、社会福祉士の受験勉強での知識が役立つ事、将来の飯のタネになりそうな事、などの理由から、ケアマネ試験を受けてみた。

結果は、介護支援分野16、保健医療福祉サービス分野25で玉砕。

正直、来年、再度受験するかどうか迷っている。強いモチベーションがないと上位20%に頭抜ける事は難しいと思うが、今の自分にはそれがないように感じる。

こんな感じの一年だった。

それでは皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。

元相談支援専門員の令和4年

令和4年2月に現場の支援員に戻ってから、一年が経過した。この期間を振り返ってみると…。

①第34回社会福祉士国家試験に不合格!

試験後の自己採点では99点(150点満点中)。おっ、まあまあかな、という感じ。実際の得点は、問題1に正答が二つあり、その一つをマークしていたため100点だった。しかし合格基準点は驚きの105点で、二度目の不合格。悲しかった…。

②サビ管基礎研修講習中にコロナ陽性に!

12月にサビ管基礎研修の講習(グループワーク)を受講。一日目は問題なく終えたが、数日後の二日目の朝、抗原検査キットで陽性反応。すぐ職場と県(サビ管研修の実施主体)に報告し、講習を欠席。県には振り替えが可能か質問したが、あまりキャンセルが出ないので、まず難しいだろうとの返答。それでも自分の電話番号を伝えた。研修は1月末までだったのでワンチャンあるかも、と思っていた。

12月末、仕事納め間近の夕方。送迎中、県から電話があり、年始の研修に空きが出たとの事。どうしますかと聞かれたので、即答でお願いします、と返事をした。

最後の最後でラッキーを拾えた令和4年だった。

相談支援専門員の向こう側②

令和3年の夏頃から、上司と何度か、自分の今後の仕事について話をしてきた。
自分としては相談支援専門員を辞めたかった。理由は、自分の年齢等からくる能力の衰えにあった。利用者さんの家族によっては、ご本人の5年先から10年先を一緒に考えて欲しいと言う方も複数おられ、50歳を過ぎた自分には、それは重荷に感じられた。自分の仕事を、能力と活力に満ちた若い世代に早く手渡す必要性を感じた。
ラッキーにも後任の相談支援専門員が見つかり、3ヶ月で引き継ぎができた。
自分は会社から去ろうと思ったが、法人内の事業所で「来てもいいよ」と言ってくれる所があり、お言葉に甘えてお世話になる事にした。
相談支援専門員としては2年の実務経験だった。約3年後の現任者研修については、自分としてはあまり受ける気はしない(会社が決める事でしょうが…)。
引き継ぎを受けてくれた新しい相談員さん、それを認めてくれた利用者さん、会社には感謝の気持ちでいっぱいだ。
令和4年2月からは現場の支援員として勤務している。約70人の人生の一部を背負う、修行のような日々から解放され、私の頭の中にはスピッツの「春の歌」が流れている。
今後、相談支援専門員を経た自分の仕事がどうなっていくのか、共有する価値がありそうなら、またここに書くかもしれない。

相談支援専門員の実地指導

過日、私が勤める相談支援事業所に、市町村の実地指導が入った。朝10時に指導員3人が来て、この利用者さん達のファイルを見せて下さい、という感じで始まった。私の担当ケースは8人ほどだった。全てのチェックが終わったのは14時頃だった。
結果、指摘事項として、①アセスメントは日時と場所を記録する事、②モニタリングは基本、自宅で行う事、などを言われた。
①については、私はアセスメント票に日時、場所を記入していない場合があり、反省点となった。
②については、私は利用者さんが通所している事業所でモニタリングをする事が多く、指導員から、サービス提供時モニタリング加算を取りに行っている印象を受ける、と言われた。正直その通りだったので、グゥとしか言えなかった。
サービス提供時モニタリング加算の記録だが、事前に手書きはあまりよろしくないとの情報を得ていた。しかし、その部分については、今回は特に何も言われなかった。

相談支援専門員のやりがい

相談支援専門員は儲かる仕事ではないし、精神的に疲弊する事が多い。ただ、つまらないだけの仕事でもない。
モニタリングで色々な事業所へ行くと、この事業所はすごい、とか、この支援員はすごい、と感じる出会いがある。そういった、自分が一目置く事業所や支援員と連絡調整を続けていくうち「実は相談があって、ウチの利用者さんの計画相談を探しているんだけど…」と頼られる時、自分は単純であるが、やりがいを感じてしまう。干乾びていた承認欲求が、水を得たように満たされるのを感じるからだ。
現状の自分は、マズローの欲求5段階説のうち、第4段階、低いレベルの方の尊重欲求にさしかかっている。こじらせて「山月記」の虎のようになる事なく、自己実現の領域に到達できるだろうか?

相談支援専門員の向こう側①

社会福祉士の国試を受けてからは、生殺しの苦しさを味わい、試験に落ちて、深い落胆を感じた。相談支援専門員の仕事は面白いわけでもなく、気晴らしにはならなかったが、それでも淡々とこなしてきた。
前にも書いたと思うが、障害年金の申請の手伝いをしたのも、仕事のひとつだった(障害福祉サービスの外側のものだから、別に相談員がやらなければいけない訳ではないけれど)。申請を終えたのは、確か国試の直後だったような…。もう、随分と時間が経った。
昨日、ご本人に通知が届き、年金を受給できるとのことだった。久々に、少し仕事で気分が上がった。思い返せば、市役所の年金担当者は、とても協力的で、良い方だった。その部分が、ご本人にとってはラッキーだった。
自分としても、社会人として、いい勉強になった。こういった経験を積んでいき、その結果として、相談支援専門員という仕事の向こう側に何があるのか、自分には分からないし(身近にロールモデルもいないから)、そもそも、相談員として経験を積んでいきたいともあまり思わないが、それでも今回の事は、喜ばしく、有意義だったと思っている。