相談支援専門員の日々

障害福祉サービスの計画相談をしていた爺(じじい)のブログ。現在は就労B、生活介護の支援員をしています。

相談支援専門員の向こう側②

令和3年の夏頃から、上司と何度か、自分の今後の仕事について話をしてきた。
自分としては相談支援専門員を辞めたかった。理由は、自分の年齢等からくる能力の衰えにあった。利用者さんの家族によっては、ご本人の5年先から10年先を一緒に考えて欲しいと言う方も複数おられ、50歳を過ぎた自分には、それは重荷に感じられた。自分の仕事を、能力と活力に満ちた若い世代に早く手渡す必要性を感じた。
ラッキーにも後任の相談支援専門員が見つかり、3ヶ月で引き継ぎができた。
自分は会社から去ろうと思ったが、法人内の事業所で「来てもいいよ」と言ってくれる所があり、お言葉に甘えてお世話になる事にした。
相談支援専門員としては2年の実務経験だった。約3年後の現任者研修については、自分としてはあまり受ける気はしない(会社が決める事でしょうが…)。
引き継ぎを受けてくれた新しい相談員さん、それを認めてくれた利用者さん、会社には感謝の気持ちでいっぱいだ。
令和4年2月からは現場の支援員として勤務している。約70人の人生の一部を背負う、修行のような日々から解放され、私の頭の中にはスピッツの「春の歌」が流れている。
今後、相談支援専門員を経た自分の仕事がどうなっていくのか、共有する価値がありそうなら、またここに書くかもしれない。

相談支援専門員の実地指導

過日、私が勤める相談支援事業所に、市町村の実地指導が入った。朝10時に指導員3人が来て、この利用者さん達のファイルを見せて下さい、という感じで始まった。私の担当ケースは8人ほどだった。全てのチェックが終わったのは14時頃だった。
結果、指摘事項として、①アセスメントは日時と場所を記録する事、②モニタリングは基本、自宅で行う事、などを言われた。
①については、私はアセスメント票に日時、場所を記入していない場合があり、反省点となった。
②については、私は利用者さんが通所している事業所でモニタリングをする事が多く、指導員から、サービス提供時モニタリング加算を取りに行っている印象を受ける、と言われた。正直その通りだったので、グゥとしか言えなかった。
サービス提供時モニタリング加算の記録だが、事前に手書きはあまりよろしくないとの情報を得ていた。しかし、その部分については、今回は特に何も言われなかった。

相談支援専門員のやりがい

相談支援専門員は儲かる仕事ではないし、精神的に疲弊する事が多い。ただ、つまらないだけの仕事でもない。
モニタリングで色々な事業所へ行くと、この事業所はすごい、とか、この支援員はすごい、と感じる出会いがある。そういった、自分が一目置く事業所や支援員と連絡調整を続けていくうち「実は相談があって、ウチの利用者さんの計画相談を探しているんだけど…」と頼られる時、自分は単純であるが、やりがいを感じてしまう。干乾びていた承認欲求が、水を得たように満たされるのを感じるからだ。
現状の自分は、マズローの欲求5段階説のうち、第4段階、低いレベルの方の尊重欲求にさしかかっている。こじらせて「山月記」の虎のようになる事なく、自己実現の領域に到達できるだろうか?

相談支援専門員の向こう側①

社会福祉士の国試を受けてからは、生殺しの苦しさを味わい、試験に落ちて、深い落胆を感じた。相談支援専門員の仕事は面白いわけでもなく、気晴らしにはならなかったが、それでも淡々とこなしてきた。
前にも書いたと思うが、障害年金の申請の手伝いをしたのも、仕事のひとつだった(障害福祉サービスの外側のものだから、別に相談員がやらなければいけない訳ではないけれど)。申請を終えたのは、確か国試の直後だったような…。もう、随分と時間が経った。
昨日、ご本人に通知が届き、年金を受給できるとのことだった。久々に、少し仕事で気分が上がった。思い返せば、市役所の年金担当者は、とても協力的で、良い方だった。その部分が、ご本人にとってはラッキーだった。
自分としても、社会人として、いい勉強になった。こういった経験を積んでいき、その結果として、相談支援専門員という仕事の向こう側に何があるのか、自分には分からないし(身近にロールモデルもいないから)、そもそも、相談員として経験を積んでいきたいともあまり思わないが、それでも今回の事は、喜ばしく、有意義だったと思っている。

相談支援専門員の連休

この連休は、自宅でテレビを観て、多くの時間を過ごしている。アマゾンプライムビデオではラッセル・クロウ主演の「ビューティフル・マインド」を観た。本作では、統合失調症の幻覚等の症状が主観的・客観的に表現されている。
私が相談を担当している精神の利用者さんでも、統合失調症の診断がついている人は多い。統合失調症は約100人に1人が発症するとも言われているそうで、実は身近な病気であると思う。私の利用者さんの場合、同じ病名でも、人により状況は様々。自力での生活が難しい方もいれば、地域で独居で暮らしている方もいる。生活能力は、障害支援区分では、あまり判断できないように感じる。
利用者さんの1人、Aさんは、団地で独居で生活し、定期的に通院し、服薬されている。経済的にも問題なく、生活環境も整っている。家事援助のヘルパーさんが入っているが、多くの部分で自立した生活をされている。ただ、幻聴があり、ご本人はそれに悩んでいる。幻聴の内容は、Aさんを批判するものである。
Aさんからは、幻聴が聞こえたら、とぼける、聞こえないふりをする、などの対応をとっている、と聞いた事がある。今回の映画を観て、Aさんが言っている事が、少しイメージできた。Aさんにとっては、幻聴と、実際に誰かから言われた言葉を区別するのは、とても難しい事だと思う。
Aさんからは、自分の言動が、何でもかんでも、幻聴の影響を受けたものとは思わないでほしい、とも言われている。時々少し不安定になり、その様子に慣れた支援者から「はいはい、またいつものあれね」的な対応をされてしまうAさんだが、自分の言っている事が半ばスルーされたり、幻聴のせいだからと断定され、否定されたりするのが悲しいのは、当然の事だと思う。

(追記)社会福祉士の過去問では、「社会理論と社会システム」の分野で、ゲーム理論の「囚人のジレンマ」がたまに出てきますが、ゲーム理論で有名な数学者が、ラッセル・クロウが演じたジョン・ナッシュなんだそうです。

相談支援専門員の2月

2月は障害年金の申請のお手伝いをした。病歴・就労状況申立書も、ご本人に聞き取りをし、つらつらと書かせて頂いた。ご本人は休まず就労Aに通われており、結果的には自分が色々とやり過ぎてしまったかな?という感じがする。相談員として、特に報酬の請求もできない。社労士であれば、いくらご本人に請求するのだろうか。
このケースでは、医師の診断書は2カ所から取らねばならず、取った結果、どちらにも追記修正が必要だった。診断書は手書きで、ボリュームも大きなものだから、先生方も書くだけで精一杯だったのかもしれない。色々あったが、とりあえず年金申請は終わり、約4カ月後に結果がご本人に通知される。
今のところ、3月は仕事での大きな行事はなく、本業である継続と変更のための計画と、モニタリングをコツコツと行っている。1月、2月はあまり件数が伸びなかったが、3月はそこそこの数字をあげられそうだ。

相談支援専門員の1月

1月は、自閉・多動で、医療ケアも必要な方のグループホーム体験利用を支援した。利用期間は約2週間だった。
朝夕は毎日、医療ケアのために訪問看護さんが入って下さった。訪看さんの時間が固定だったため、土日祝の日中一時の送迎にご本人が乗る事は出来なかった。送迎に乗れなければ、なんとか自力で移動するしかない。ご本人一人での移動は難しいので、移動支援を当たってみた。しかしながら、土日祝の朝夕に動けるヘルパーさんはいなかった。
バスケットボールに例えるなら、ご本人というボールを抱えたまま、パスを出す相手がいない状態だった。
優れた(地域資源について手持ちのカードを豊富に持っている)相談員なら、なんとか出来るのだろうが、私は自分がボランティア(私にとっても、相談の事業所にとっても)で動く事しか考えつかなかった。結果、土日祝の数日、ご本人のホーム~日中一時間の送迎を行なった。
ご本人に医療ケアが必要で、緊急時にはご本人の状態を確認し、私が勤務する法人の医療コーディネーターにそれを伝え、指示を仰がないといけない。緊急時に備え、朝の送迎後は、日中一時の事業所近くのコンビニの駐車場で時間を潰した。時間潰しには、社会福祉士の国試の一問一答を読んでいた。さすがに送迎の最終日には、コンビニのオーナーらしき人から、移動の要請を受けた。結果的に日中一時利用時の緊急対応はなく、その部分ではほっとした。
ホーム利用の終盤は、ご本人の体調が悪くなり、数値的に重い感染症の状態になってしまった。
看護師が常駐する立派な短期入所の施設ではなく、地域の普通のグループホームで、2週間も親許を離れ過ごす事は、ご本人にとって初めての経験だった。